※本ツアーは開催前です。
多古町には30を超える城があります。多古町はかつて九十九里方面から海が入り込んでいたため、水運の発達した土地でした。「多古」という地名の由来は、湖沼が広がる地「多湖」に因むとも言われるように、中世においても水運の発達した土地だったことが分かります。町内には「栗山川」「借当川」「多古橋川」が流れていて、この河川がかつての入江の名残りです。このように交通の要衝地だった多古は、坂東八平氏、関東八屋形に数えられる名門千葉一族の大事な拠点のひとつになりました。
1180年に源頼朝が打倒平家の兵を挙げると、千葉一族は頼朝に協力し、ともに戦い、平家追討に多大な貢献をしました。この功から千葉一族は鎌倉幕府内で重用され、全国に展開して活躍しました。名族千葉氏の重要拠点のひとつだった多古にはたくさんの城が築かれ、幾多の戦いの舞台になったのです。
今回は、歴史深い多古のお城を楽しむスタンプラリーです。お城をめぐって多古町の歴史ロマンを楽しみましょう。
(各城ともに説明文は多古城郭保存活用会アドバイザー山城ガールむつみが執筆しました。©山城ガールむつみ)
ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「13353」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。
多古城
千葉県香取郡
多古城周辺は開発が進み、現在は多古台バスターミナルの裏手に当時の城の遺構を残すのみですが、多古城は歴史が豊富で多古町を代表する城です。戦国時代終わり頃まで使われたと思われ、その頃は牛尾胤仲が城主だったと伝わり、大きな空堀が現地に残っています。
また、戦国時代の幕開けとともに千葉一族ではお家騒動が起きますが、そのとき戦いの舞台にもなった城です。お家騒動によって、千葉の館を分家に攻撃された当主千葉胤直と子の宣胤らは多古に逃げ込みます。このとき、宣胤が籠もったのが多古城なのです。宣胤は奮戦するも城下の阿弥陀堂で自害、志摩城に籠もった父胤直も自害しました。
千葉氏の歴史ロマンが残るここ多古城で、歴史に思いを馳せてください!
志摩城
千葉県香取郡
志摩城は「島」地区に築かれました。島はその名の通り、湖沼に浮かんだ島のような立地をしていて、要害性に富み、さらには水上交通の拠点としてとても重要な場所だったと思われます。貿易、経済、流通の拠点だった志摩城は、千葉氏の歴史を語るに欠かせない城でもあります。
戦国時代の幕開けとともに千葉一族ではお家騒動が起きますが、そのとき志摩城は戦いの舞台になりました。お家騒動によって、千葉の館を分家に攻撃された当主千葉胤直と子の宣胤らは多古に逃げ込みます。このとき、胤直が籠もったのが志摩城です。胤直は奮戦するも城下の妙光寺(現正覚寺)で自害、多古城に籠もった子宣胤も自害しました。
島地区は志摩城と一体化した地域だったと思われ、多くの家に土塁が残っています。町内を歩くと、志摩城下として入り組んだ防御性を持った集落が形成されていたことがよく分かります。
ぜひ、志摩城とセットで島地区を散策してみてください!
並木城
千葉県香取郡
並木城は栗山川と借当川の合流地点を臨む台地に築かれていて、水運と密接な城だったと思われます。栗山川は香取方面、借当川は椿の海方面へと繋がり、それらの通行を監視する役目があったと考えられます。
南北朝時代、並木城近辺で南朝方の千葉貞胤と北朝方の千葉胤貞が戦った「土橋合戦」が起きたとき、並木城も戦いの舞台になったことがわかっています。
現在の並木城には、戦国時代の見事な土塁、空堀、枡形虎口、櫓台が残っています。要衝地に築かれた並木城はいつの時代も地域の中心的な城として使われたのだと思われ、まさに多古町屈指の城ですね!
玉造城
千葉県香取郡
玉造城は三方を険しい崖に囲まれた天然の要害です。城内には八幡神社が祀られていますが、社殿が建っている土台の高まりは戦国時代の物見台です。他にも土塁や空堀が残り、守りを固めた当時の姿を見ることができで、臨場感を感じることができます。
戦国時代末期に玉造城主だった野平常義は小田原北条氏家臣だったため、1590年の小田原北条氏滅亡をもって、玉造城も廃城になったと思われます。この地域には戦国時代の落城伝説も残っていて、地域の歴史を物語る城といえます!
土橋城
千葉県香取郡
土橋城は水上交通の大動脈「栗山川」を見下ろす高台に築かれ、城下にあった湊を管理し、川の行き来を見張る役目があったと思われます。
西側の谷にある土橋山東禅寺は、中世において関東を代表する重要な寺だった金沢称名寺(横浜市)と関係が深い寺です。このとこからも土橋地域が重要な場所であったことが分かり、土橋城の存在が大きく浮かび上がります。
南北朝時代には、南朝方の千葉貞胤と北朝方の千葉胤貞が戦った「土橋合戦」の舞台になりました。今はのどかな景色が広がるこの場所で、かつて激しい合戦が繰り広げられたとは信じられませんね!
次浦城
千葉県香取郡
次浦城には、土塁、空堀、虎口(こぐち)など、戦国時代の城の遺構がしっかりと残っています。
次浦城は千葉一族次浦氏の城だったと考えられています。いま目の前に見える次浦城の姿は、戦国時代の終わり頃に、里見氏・正木氏による香取侵攻に備えるために改修されたものと思われます。城の来歴については詳細不明ですが、実戦的で防御性に優れたその姿から、戦国時代の緊迫感を感じることができますね!
多古藩陣屋
千葉県香取郡
現在の多古第一小学校の敷地周辺に、江戸時代の多古藩の陣屋が置かれました。
1590年に小田原北条氏が豊臣秀吉に攻められ滅亡すると、徳川家康が関東に入ってきます。多古には家康家臣の保科正光が入りましたが、関ケ原の戦い後に正光が高遠藩に移ったため、多古藩は一時廃藩となりました。その後、久松松平氏が多古藩領主として多古に入り、陣屋を構えました。久松松平家は家康の異父弟にあたる家柄で、1万2千石の大名として明治を迎えるまで存続しました。石垣が残る陣屋は珍しく、ぜひ今に残る石垣の一部を見て、当時の様子を想像して楽しんでください!
久保城
千葉県香取郡
久保城は千葉一族本家当主千葉胤貞の居城と伝わっています。胤貞は鎌倉時代末期から南北朝時代を生きた人物で、足利尊氏の有力家臣として活躍しました。また、千葉氏は全国各地に所領を持っていましたが、その中でも小城(佐賀県小城市)に移住して勢力を広げた「九州千葉氏」が有名です。九州千葉氏は胤貞からはじまる系統で、戦国時代には国衆として九州戦国史を彩りました。
多古町内の分城や中城なども、胤貞ゆかりの城と伝わっています。まさに胤貞は多古町の歴史を知る上で、欠かせない人物ですね!
土やぐら城
千葉県香取郡
台地の先端に築かれた土やぐら城は、台地上を通る街道を監視する役目を持っていたと思われます。中城坂を挟んで物見台城があるので、両城は連携していたと考えられます。
土やぐら城から北へ向かうと香取方面に出ることから、この城は里見氏・正木氏による香取侵攻に備えて強化された防御施設と思われます。かつては空堀が周囲を巡っていたと伝わり、現在は櫓台、土塁が残っています。
土やぐら城、物見台城、中城坂をセットで歩いて、歴史を楽しんでください!
物見台城
千葉県香取郡
物見台城は西側に入り込む谷を挟んで中城があり、東側には中城坂を挟んで土やぐら城があります。この城は中城と土やぐら城と連携しながら、水陸交通を監視する役目を持っていたと考えられます。物見台城から北へ向かうと香取方面に出ることから、この城は里見氏・正木氏による香取侵攻に備えて強化された防御施設と思われます。
現在、物見台城周辺は山林や畑になっていて、当時の全体像は不明ですが、諏訪神社周辺には土塁、空堀、桝形虎口等が残り、台地南西側には土塁、帯曲輪、物見台等が残っています。
土やぐら城や中城との連携を考えながら、現地を歩いて楽しんでください!
松崎城
千葉県香取郡
松崎城は能満寺を中心とした台地に築かれました。ここは栗山川の支流と、香取の海や小見川に繋がる街道も通る水陸交通の要衝地にあたります。創建が772年の多古町最古の神社「松崎神社」が近くにあることから、古くから開けた場所であることも分かります。能満寺は正木氏と関係の深い寺であることから、松崎城も里見氏・正木氏による香取侵攻のときに陣所にしていた可能性もあり、歴史を考えるにはとても楽しい城です!
中城
千葉県香取郡
中城は鎌倉時代や南北朝時代に創建された日本寺、妙興寺、妙光寺などの古刹が点在する中村地区の台地に築かれました。この地域が古くから開けていた重要な場所だということがよくわかります。ここ中城は、久保城や分城などと同じく、千葉一族本家当主千葉胤貞が築いたとも伝わります。
現在残る城の遺構は戦国時代のもので、土塁や物見台などがしっかり残り、とても見応えのある城です!
分城
千葉県香取郡
分城は水上交通の大動脈「栗山川」を見下ろす高台に築かれ、現在は妙見神社が祀られています。ここ分城は、久保城や中城などと同じく、千葉一族本家当主千葉胤貞が築いたとも伝わりますが、いまに残る遺構は戦国時代のものと考えられます。目の前の社殿を取り巻くように空堀と土塁が一周していて、さらには横から矢が射かけられるような張り出し「横矢」という仕掛けも見ることができます。まさに、戦国時代の城を楽しめる城ですね!
大島砦
千葉県香取郡
大島砦は標高32mの丸山に築かれ、現在、山頂には熊野神社が建っています。ここは、水運の大動脈「栗山川」を見下ろす位置にあたるため、川の行き来を監視していたとも想像できます。千葉氏にとって重要な志摩城がすぐ北側にあることから、志摩城の出城のような役目をしていたのかもしれません。大島砦から志摩城を眺めて、当時を想像して楽しんでください!
次浦八郎常盛館
千葉県香取郡
次浦八郎常盛館は鎌倉時代の武将次浦八郎常盛の館跡と伝わっています。もともとここには、平清盛の義弟にあたる藤原親政の館があったとされ、平安時代の終わり頃に親政が没落すると、千葉一族が次浦に入ってきて次浦氏を名乗ったと考えられています。
今は山深い場所になっているものの、平清盛に近しい人物がここにいたと想像すると、楽しいですね。当時を想像して楽しんでみてください!