岩倉市の自然・歴史・文化・食がわかりやすく紹介されています。
まち歩きマップになっていてコースも掲載されていますので、
各コースを組み合わせるなど、お好みのコースを散策しください。
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織田伊勢守信安夫妻墓(誓願寺)
愛知県岩倉市
織田伊勢守家は、岩倉城を拠点に尾張上四郡を80年間にわたり支配していました。信安・信賢父子の時代に信長に攻め滅ぼされ、尾張上四郡・下四郡の分割統治時代に終止符が打たれました。
この墓碑は、織田信安の子孫津田新十郎によって菩提寺、名古屋市東区松山町含笑寺に建立されました。戦後の名古屋の都市計画により、平和公園に移設された後、無縁墓となっていたところを発見され、信安夫人秋悦院ゆかりの誓願寺に移設されています。
【引用元】岩倉市ホームページ
岩倉城跡(石碑)
愛知県岩倉市
室町幕府8代将軍足利義政のころ、幕府の権威が失墜し、応仁の乱という国内を二分する大きな争いがおきました。その結果、下剋上の風潮がみなぎり、“戦国時代“へ突入しました。
尾張においても、守護代として権力を握っていた織田氏に内紛がおこり、文明10年(1478年)織田敏定と敏広との間で激しい戦いが繰り広げられていきましたが、和議にて織田敏広が岩倉城で尾張北部を、織田敏定が清洲城で尾張南部を治めるという分割統治の時代になりました。その後、信秀の子・織田信長が天文24年(1555年)清洲城主となりました。このころの岩倉城主は、織田信安・信賢で、信長と反目しあい、永禄元年(1558年)、両者は浮野で戦い、永禄2年(1559年)信長は岩倉城を落城させ、尾張の統一を果たしました。
城の構えは、古文書によると東西約90m、南北約170mの二重堀であり、館と望楼があったといわれています。
【引用元】岩倉市ホームページ
山内一豊誕生地碑(神明生田神社)
愛知県岩倉市
山内一豊は、天文14年(1545年)7月岩倉城の家老但馬守盛豊の次男として、岩倉の地に誕生しました。一豊は、信長が美濃支配をした永禄10年(1567年)ころから信長に仕え、元亀元年ころに妻の千代を迎えたとされています。信長に仕えるようになり、天正12年(1584年)に近江の長浜(滋賀県)で5千石、同18年には遠江の掛川(静岡県)で6万石の城主となりました。
秀吉死後は、徳川家康に味方し慶長5年(1600年)に土佐20万石の領主となり、高知城を築城しました。
山内一豊の誕生地碑は、一豊の父盛豊が「武運長久を祈って社を建てた」という由緒により、昭和9年に神明生田神社境内に建てられました。
【引用元】岩倉市ホームページ
下本町山車(神明生田神社)
愛知県岩倉市
下本町の山車は、岩倉の山車の中でも最も歴史が古く、寛永2年(1625年)に制作されたと伝えられています。木製三段組み立てで、三段目の部分は上下に伸縮します。四本柱の乾(いぬい・北西)柱には、この山車がかつて「杉山」と呼ばれていたことから、今でも杉の枝を縛りつけています。
からくり人形は5体あり、四本柱内に「菅丞相(かんしょうじょう)」(2体)と「唐子遊(からこあそび)」(2体)、二層目に「ざいふり」(1体)があります。
【引用元】岩倉市ホームページ
大上市場山車(新溝神社)
愛知県岩倉市
大上市場の山車は、寛永6年(1629年)に制作されたと伝えられています。他2町の山車と同様、木製三段組み立てで、三段目の部分は上下に伸縮します。水引きは、尾張藩の御用絵師であった山本梅逸(ばいいつ)(1783年から1857年)の手によるものです。
からくり人形は4体あり、四本柱内に「肩上倒立(けんじょうとうりつ)」(2体)と「乱杭渡り(らんぐいわたり)」(1体)、二層目に「ざいふり」(1体)があります。
【引用元】岩倉市ホームページ
中本町山車(神明大一社)
愛知県岩倉市
中本町の山車は、寛永3年(1626年)に制作されたと伝えられています。下本町の山車と同様、木製三段組み立てで、三段目の部分は上下に伸縮します。水引きは、名古屋を代表する江戸時代後期の画家、渡辺清(1778年から1861年)の手によるものです。からくり人形は4体あり、四本柱内に「那須与一(なすのよいち)」(1体)と「チリリ(回転)」(2体)、二層目に「ざいふり」(1体)があります。
【引用元】岩倉市ホームページ
くすのきの家展示室
愛知県岩倉市
市指定文化財で、西出古墳から出土した古墳時代の朝顔型埴輪、円筒埴輪、稲荷町御土井廃寺址から出土した須恵器、そして県指定大地遺跡から出土した弥生時代の壷や岩倉城跡発掘調査したときの写真などを展示。また、市内三町(大上市場、中本町、下本町)が保存する市指定文化財の山車に関する道具や実際に体験できるからくり人形も展示しています。
【引用元】岩倉市ホームページ
新溝古墳(新溝神社)
愛知県岩倉市
本町・新溝神社本殿下の小高い部分が新溝古墳です。明治のころ、この古墳上に奉られた新溝神社の社殿改築にあたって墳丘を整地したところ、この中から数個の巨石が発見され、ここが古墳であることが分かりました。その巨石は、おそらく古墳の石室であったもので、その大きさから想像すると相当大きな古墳であったと思われます。古墳の形については、神明大一社に伝わる寛政4年(1792年)「神明太一宮鳥瞰図」の絵図には、立派な円墳が描かれています。
【引用元】岩倉市ホームページ
岩倉市史跡公園
愛知県岩倉市
昭和22(1947)年に、大地町野合地内の畑から、土器の壷が出土しました。これは、弥生中期前半に属するもので、尾張地方北部を中心に分布することが判明し、以後、この土器群は「大地式土器」と称されるようになりました。
昭和26(1951)年、名古屋大学考古学研究室の指導で、壷が出土した一帯の発掘調査が行われました。縄文時代後期や弥生時代中期・後期の土器に混じって、東西約7メートル、南北約4メートルの竪穴住居跡が発見されました。
この遺跡は尾張平野の弥生文化を知る上で極めて重要であり、昭和29(1954)年3月に、大地遺跡として愛知県指定史跡に指定されました。
これらの歴史的な発見により、大地遺跡とその周辺の土地を取得して、平成8年4月に市民の歴史学習の場として史跡公園が整備されました。園内には、大地遺跡から発見された竪穴住居を想像復元し、岩倉市指定文化財の鳥居建民家が移築され、本町北廻間にあった道標も移設されました。
烏居建民家は、東町にあった農家の母屋で、元の規模より縮小されて市役所東側に移築されていましたが、史跡公園の整備に伴い再移築しました。「鳥居建て」と呼ばれるのは、主柱が二本あり、梁がこの柱にかかり、その下にツナギが1本横渡しになっており、この形が神社の鳥居に似ていることによります。
実際に使用されていた当時は、わらぶきで軒は瓦ぶきの普通の農家で、江戸時代に建築された建物です。内部は建築当初のままで、ほとんど手を加えた後がなく、家屋の構造から室町時代における農家の形式を残しており、貴重なものです。
この史跡公園は、小学生の社会見学や遠足に利用されたり、鳥居建民家を利用した茶会が催されたりして、市民から親しまれています。
【引用元】岩倉市ホームページ
岩倉市自然生態園
愛知県岩倉市
自然生態園は隣接する津島神社の森と一体のものとして、失われつつある自然環境を保全・復元し、市民のみなさんが身近な自然にふれあう場として整備したものです。
津島神社の森は、樹齢200年をこえるシラカシの木を始め100種類におよぶ草木が生育する歴史のある森で、その形成には250年以上の歳月がかかったと考えられる、市内でも有数な貴重な自然です。
この公園は、「自然との共生」を目指してこの地に固有の※ビオトープとして整備しました。園内には小川、池、湿地などどともに草屋根昆虫館や鳥のすみかとなる木製タワーなどを作りました。
また、木や草など古くからこの地域にあった植物類を植えました。こうして、生物が住みやすい環境を整え、つい最近までどこにでもあたりまえに存在していた、数多くの生き物を呼び戻そうとしたものです。
皆さん、一度お越しになってください。
※ビオトープ
ドイツ語で、直訳は「生命の場所」。湿地、雑木林、池などに存在する固有の動植物群を保持する空間のこと。動物が自力で生活し、その「種」の永続的な持続が可能な場所や環境をいう。
【引用元】岩倉市ホームページ