【第3弾】南北朝・菊池一族歴史街道スタンプラリー

八女市

【第3弾】南北朝・菊池一族歴史街道スタンプラリーのイメージ

 毎年大好評を博している「南北朝・菊池一族歴史街道スタンプラリー」。
 これまで参加できなかった皆さまも、お待たせしました! 皆さまの声にお応えして、いよいよ第3弾の開始です!! 
 私たち南北朝・菊池一族歴史街道推進連絡協議会(福岡県久留米市、八女市、小郡市、うきは市、大刀洗町、熊本県菊池市)の地域には、南北朝時代の史跡・戦跡のほか、そこで活躍した武士団によってつくられた地域の歴史やその影響を後世まで伝える歴史文化が残ります。また、その地域が育んだ豊かな農産物など数多くの魅力があります。
 そのような地域の特色あふれる場所を、スポットとして厳選しました。地域の魅力に触れながらスポットを巡り、スタンプを集めてご応募ください。スタンプの数に応じて、各地域の特産品や、日本三大合戦の一つに数えられる「筑後川の戦い」の陣図をデザインした特製ワイヤレス充電器が合計100名様に当たります! 陣図をデザインした特製のグッズも今回で3種類目。リピーターの方は、陣図シリーズとしてコレクションの一つに加えてください。
初めてご参加の皆さまも、もちろん大歓迎です! それぞれのスポットの魅力・楽しさを探しに、いざ出陣です!!
 また協議会では、6種類の「史跡カード」を作りました。6市町いち押しの史跡が、それぞれ1枚のカードとしてお目見え。配付場所は、ポスター・チラシに掲載しています。スタンプラリーついでに、こちらもぜひ集めてくださいね。カードについて詳しくは、https://www.city.kikuchi.lg.jp/ichizoku/article/view/2101/10465.html

※スタンプラリーへの参加は無料ですが、通信料および移動に必要な経費は参加者負担となります。
※ご利用の端末、ブラウザによってスタンプラリーWEBサイトが正しく作動しない場合があります。
※GPSの精度によって誤差が生じるため、場所によっては地図上で現在位置がずれる可能性があります。GPSの精度による誤差等にて生じた一切の責任は負いかねますのでご了承ください。
※このスタンプラリーでは、GPSによる位置情報を常に取得するため、端末の電池を多く消耗します。充電、予備のバッテリーの携帯など電池に余裕を持たせてからご参加ください。

ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「44410」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。

高良大社

福岡県久留米市

高良大社のイメージ

 久留米市のほぼ中央に位置する高良山は、古代より近世にかけて神仏習合の山として人々の信仰を集め、山内には多数の社寺が存在していました。明治時代になると神仏分離令によって御井寺と12の支院は廃絶し、寺宝も散逸しましたが、山上に鎮座する高良大社は、今も筑後一の宮として厚い信仰を受け、その長い歴史によって蓄積された多彩な歴史資料が伝来しています。
 高良大社は高良玉垂命を主神として、八幡大神・住吉大明神を合わせ祀る神社です。社伝では、その高良神は仁徳天皇55(367)年、もしくは同78(390)年に鎮座され、履中天皇元(400)年に社殿が創建されたとされています。文献上では『日本紀略』の延暦14(795)年5月条に高良神に従五位下の神階を授けられた記事が最も古い記録です。その後寛平9(897)年には正一位に叙せられ、「高良庄」と呼ばれる広大な社領を有して繁栄していましたが、南北朝や戦国時代には筑後国のみならず、筑前・肥前国を広く見渡す要地として諸勢力の争奪の場となり、荒廃した時期もありました。
 元和7(1621)年、有馬氏が筑後国7郡の領主となると、その保護を受け、万治3(1660)年有馬家三代頼利は現在の社殿を造営、寄進しています。
 貴重な資料は宝物殿に保管されています。スタンプラリー会期中の宝物殿の開館日は10月9日(水)~11月4日(月・祝)の期間の土・日・祝日のみとなっています。入館料は無料。開館日は変更となる場合もありますので、HPなどでご確認ください。

龍護山千光寺

福岡県久留米市

龍護山千光寺のイメージ

 龍護山千光寺は、寺伝によれば、治承4(1180)年、もしくは建久3(1192)年、栄西(のちの千光国師)が建立した、白銀山(柳坂山)千光院を起源とする寺院です。地元の有力者、草野太郎永平の庇護を受けて、七堂伽藍や七ヶ寺もの塔頭が整備されました。千光院は当初は天台宗でしたが、栄西が2度目の入宋時に、臨済禅の正伝を受けて帰国すると、千光院を千光寺と改め、わが国で初めて臨済寺院となったとも伝わる寺院です。境内には、懐良親王の御陵墓や、北朝年号を持つ梵鐘など、南北朝の複雑な情勢を物語る遺跡があります。
 境内は度々火災を受けたことにより、応永27(1420)年、後小松天皇から「龍護山」の勅額が下され、山号も龍護山に改められました。その後、寺勢が衰えた時期もありましたが、文亀2(1502)年、草野重永は、周防国富田龍門(文)寺より黙厳為契禅師を招き、曹洞宗寺院として再興しました。
 天正16(1588)年、草野氏は豊臣秀吉によって滅ぼされますが、新領主の小早川(毛利)秀包は、千光寺に仏殿・客殿・食堂を建立して父毛利元就の位牌を安置し、寺領6町を寄進しました。以後、この地を治めた田中家、有馬家からも庇護を受け、筑後国曹洞宗の本寺として、信仰を集めていました。
 現在は、「あじさい寺」として有名で、シーズンには50種・7,000株ものあじさいが境内を彩ります。

学びの館(旧隈本家住宅 石橋忍月文学資料館 収蔵文化財展示場)

福岡県八女市

学びの館(旧隈本家住宅 石橋忍月文学資料館 収蔵文化財展示場)のイメージ

 八女市役所黒木支所から徒歩約5分、学びの館には旧隈本家住宅、石橋忍月文学資料館、収蔵文化財展示場があります。収蔵文化財展示場は八女市黒木町にゆかりのある古文書などの歴史的資料を収集し、保存・公開する施設として建設されたもので、近世の古文書、近代議会議事録や、明治期の文芸評論家で、文豪森鴎外との「舞姫」論争を展開したことで知られる石橋忍月関係資料が収蔵されています。
 八女市黒木町をはじめとした八女東部はたびたび戦場になったこともあって、南北朝時代にまつわる伝承や行事、文化財、地名が数多く残されています。4月末にかけては良成親王お手植えと伝わる黒木のフジ(国指定文化財)が花開き、秋分の日には貴重な宝物が公開される五條家御旗祭、良成親王の命日とされる10月8日には、八女市矢部村の大杣公園で大杣公園祭が開催されます。
 八女市東部の入口となる学びの館で、南北朝ゆかりの歴史に触れ、八女市各地をぜひ訪問ください。

八女市矢部地区観光物産交流施設「杣のさと」

福岡県八女市

八女市矢部地区観光物産交流施設「杣のさと」のイメージ

 八女市黒木町から国道442号線を東に進み、黒岩隧道のトンネルを抜けると八女市矢部村に到着します。日向神ダムや桜の名所として知られる矢部村は、八女津媛神社や良成親王墓がある大杣公園など、歴史豊かな場所としても知られています。
 トンネルから約10分ほどで八女市矢部地区観光物産交流施設「杣のさと」に着きます。
 トイレ、パンフレット等で観光情報を得られる多目的ルームや、飲食スペースと物産販売所がある矢部村のおもてなしの場です。矢部川を望むテラス席があり、休憩所としてご利用できます。
 紅葉の名所八女津媛神社、大杣公園の良成親王墓を見学される際には、杣のさとを拠点に矢部村各地をぜひご訪問ください。近くには、全7棟平屋造りの高級感溢れる離れ宿、奥八女別邸やべのもりや、矢部中学校の旧校舎を利用して、矢部の教育沿革、民俗文化や郷土芸能、世界子ども愛樹祭コンクールに寄せられた作品等の展示を行う杣のふるさと文化館、福岡県の最高峰である釈迦岳があります。
 良成親王の命日とされる10月8日には大杣公園祭、11月の第3土日には、子どもたちによる八女津媛神社の浮立が公開されます。

大原古戦場

福岡県小郡市

大原古戦場のイメージ

 正平14(北朝延文4・1359)年、懐良親王・菊池武光らの征西府軍(南朝方)と少弐頼尚軍(北朝方)が、筑後川沿岸から大保原にかけて戦いました。これを大保原合戦(大原合戦)と言います。
 7月、征西将軍懐良親王を大将として菊池武光らが大宰府に攻め寄せてくるという報を聞いた少弐頼尚は、それを迎え撃とうと筑後に出陣し、6万騎の兵で、筑後川を前にして味坂庄(小郡市鰺坂地区から久留米市宮ノ陣町一帯)に陣を取りました。一方の征西府軍は8千騎の兵で、筑後川を見下ろす高良山などに陣を取りました。(※軍勢の数は『太平記』による)
 7月19日、菊池勢がまず筑後川を渡り、少弐勢に向かって押し寄せますが、少弐頼尚はこれとは戦わず、退いて大保原(大原)に陣を取りました。
 その後、にらみ合いが続きますが、8月6日(『太平記』では16日)夜半、菊池勢が少弐の陣へ攻めかかり、決戦が始まりました。
 この戦いで少弐頼尚軍は、少弐忠資などの一族の者23人を含めて3,600人以上が討たれて大宰府へ引き揚げ、また征西府軍も1,800人以上が討ち死にしたので、それ以上は攻められず引き揚げました。この2年後の正平16(1361)年8月に、懐良親王は念願の大宰府入りを果たします。
 『太平記』は南朝側からの視点で書かれた書物のため、8千の征西府軍が6万の少弐軍を破るという劇的な描き方をしていますが、実際には互角か、征西府軍の兵力の方が勝っていたという研究もあります。また、この戦いは、自分の本拠地である大宰府を目指して押し寄せてきた征西府軍に対して、少弐軍が必死に抵抗した戦いだったともいえるでしょう。
 なお、大原古戦場碑の立つ小郡市役所横の東町公園周辺には「前伏」や「髙見下」という地名があります。これは大保原合戦の際、少弐軍の警戒兵が厳重に監視していたことが由来であると考えられています。

花立山(城山公園)

福岡県朝倉郡

花立山(城山公園)のイメージ

 小郡市で唯一の山である花立山(130.6m)。筑前・筑後の国境の山で、宝満山・古処山・高良山・九千部山などの山々に囲まれた平野の中央に位置しています。山麓には旧石器時代からの人々の営みの痕跡のほか、古墳(今から1,400年ほど前の墓)も多く見つかり、中世には城が築かれ、頂上には英彦山から神社が勧請・創建されるなど、周辺地域にとって欠かすことのできないシンボルです。
 麓にある城山公園の駐車場から山頂の展望台までは自然の遊歩道が続き、20分もあれば登頂することができます。展望台からは小郡市北部が一望でき、南の高良山を眺めれば、正平14(延文4・1359)年、現在の小郡・大保・山隈を中心に繰り広げられた大保原合戦へ思いを馳せることができます。

正平塔

福岡県うきは市

正平塔のイメージ

 この塔を建立した調衆(しらべしゅう)一門は、黒木助能(すけよし)を始祖とする星野氏、黒木氏、川崎氏の三氏の総称で、なかでも星野氏は耳納山の複数の山城を拠点として吉井周辺を支配していました。南北朝の戦乱時には、肥後の菊池氏と征西将軍懐良親王を奉じて南朝に尽くしました。北朝の武家側とは幾度も戦い、多くの生命が失われました。なかでも正平14(1359)年の大原合戦(筑後川の戦い)は、両軍最大の激戦で双方とも多数の戦没者が出ました。これらの戦いで散華した両軍将士の霊を供養するため、この塔が建立されました。(うきは市指定史跡)

観光会館「土蔵(くら)」

福岡県うきは市

観光会館「土蔵(くら)」のイメージ

 うきは市の観光情報の発信基地。
 酒づくりが盛んだった吉井の酒蔵を改装した建物の中には、うきは観光みらいづくり公社の事務所とうきは市のゆるキャラ「うきぴー」の小物を取り揃えたうきぴーショップのほか、人気のどら焼き店 Qui-ti-co-co(キチココ)が営むカフェが併設されています。観光パンフレットやマップなどをご用意しておりますので、ご自由にお持ちください。電動アシスト付き自転車のレンタルも行っております。

・電話番号:0943-76-3980
・営業時間:9:00~17:00
・休日:月曜日(祝日の場合は翌日)
・駐車場有り 
・住所:福岡県うきは市吉井町1043-2

菊池武光公銅像(大刀洗公園)

福岡県三井郡

菊池武光公銅像(大刀洗公園)のイメージ

 大刀洗川のほとりに広がる大刀洗公園。その中央部に菊池武光の銅像が大刀洗川を見下ろすようにそびえ立っています。昭和12年に立てられたこの像は、全国的にも珍しい下馬した姿で、今まさに太刀を洗わんとするかのようです。
 馬の胴体や台座の傷跡は、陸軍大刀洗飛行場を標的とした大刀洗空襲の際の機銃掃射や爆撃によるものと伝わります。
 自身が激戦を繰り広げたこの地が再び戦禍に巻き込まれる様を、武光はどのような思いで見つめていたのでしょうか。

三原城跡(本郷城跡)

福岡県三井郡

三原城跡(本郷城跡)のイメージ

 武光の台頭する前の延元元(1336)年、多々良浜の戦いで足利尊氏に敗れた肥後の菊池武敏は、本郷の三原朝種に護られて「三原城」に逃げ込みました。ここで10日あまり籠城して戦いましたが、とうてい足利方の仁木義長の攻撃を支えることはできませんでした。
 三原城は石垣を高く積んで、天守閣をもつような城ではなく、屋敷を堀でかこんだ館です。今でも堀の跡がよく残っています。天正14(1586)年に当主三原紹心が太宰府の四王寺山の岩屋城で鹿児島の島津軍との戦いで討ち死にし、城としての役目は終えました。平地にある城(館)で堀がはっきり残っているのは福岡県内では三原城だけで、大変めずらしい遺跡です。平安時代より栄えた三原家代々の居城・三原城があった本郷地区は、現在も昔ながらの街並みがたくさん残っています。白壁造りの家や寺社仏閣、醬油の蔵元、酒造など歴史情緒あふれる街並みが広がります。

菊之池跡

熊本県菊池市

菊之池跡のイメージ

 今から約950年前の延久2(1070)年、菊池一族の初代とされる藤原則隆が菊池の地を踏みました。新しい領主として、大宰府からやってきたのです。太宰府天満宮領赤星荘園の荘官として、菊池へ赴任した則隆。この地方の最有力者と目され、荘園管理の適任者として命を受けました。
 則隆が足を踏み入れた深川には、清水がこんこんと湧き、和菊が咲き乱れる美しい池がありました。これが菊池の名のもとになったとされている「菊之池」です。
 この時、則隆の眼前に千年に一度現れ、幸せを呼ぶといわれる吉兆龍の白龍が現れ、天高く昇っていったと伝えられています。
 則隆は、菊池の風土をいたく気に入り、ここに居を構えることを決め、「北宮館(菊之城)」を築きました。そして土地の名前を取って、「菊池」と名乗ることとしたのです。
 則隆の墓所は、文化15(1818)年に造られました。菊之池跡から東へ約50mのところにあり、今でも地元の人々の手で大切に祀られ続けています。
 さて、ここからもう一つ、菊池市に残る龍伝説の地に足を延ばして見せんか?
 菊池市龍門の竜門ダムの麓には、「神龍八大龍王神社」(熊本県菊池市龍門643)と呼ばれるパワースポットがあります。境内には、「天正三年(一五七五)五月六日、世界の平和を祈念して、この地に鎮座された」と書かれており、あたかも時が止まったかのような静粛な空気が漂います。すぐ下を流れる迫間川には二つの渕があり、上の渕を「雄龍の渕」、下の渕を「雌龍の渕」と呼んでいます。その昔、ここに雄龍と雌龍が棲んでいたと伝えられています。

江月山玉祥寺(為邦・重朝墓所)

熊本県菊池市

江月山玉祥寺(為邦・重朝墓所)のイメージ

 享徳元(1452)年、菊池氏20代為邦により開山された曹洞宗の寺です。本尊は、勢至菩薩。為邦とその長男で21代重朝の墓所でもあります。
 為邦は、19代持朝の嫡子で父の死去により家督を相続し、大友氏との領有権争いを繰り広げましたが敗北。この頃より、一族に衰退の兆しが見え始めます。この後、文正元(1466)年に隠居、菊池十八外城の一つである亀尾城下に隠棲し、日夜『碧巌集(へきがんしゅう)』の研究に励みました。さらに仏門に入り、居館を神龍山(しんりゅうざん)碧巌寺として開山しました。
 長享2(1488)年没、享年59。碧巌寺には、没後250年を機に遺髪塔(分墓)が建てられています。
 為邦の長男・重朝は、父の隠居に伴い家督を相続。勢力衰退という厳しい状況に置かれた重朝ですが、文の面では父に続き大きな功績を残しています。
 為邦や家臣の隈部忠直(くまべただのぶ)と相談し、文明4(1472)年に孔子堂を建て文教を奨励、文明8(1476)年には、孔子の祭りである「釈奠(せきてん)の礼」を催行しました。さらに文明13(1481)年には、「菊池万句」と呼ばれる偉業を成し遂げます。重朝の館をはじめ家臣や僧などの館20カ所で、「月」をテーマに会場それぞれに500句ずつ、なんと一日のうちに1万句を詠んだのです。これにより菊池の人々の詩趣や教養の高さは、世に広く知れ渡ることとなりました。
 現在、境内には、重朝の発句「月や志(し)る十代(とがえり)の松の千々の秋」の石碑や主だった家臣の句碑が建ち並んでいます。
 このように文の面では多大な功績を残した重朝ですが、武の面では苦戦を強いられたまま、失意のうちに明応2(1493)年に亡くなりました。
 ここでスタンプをゲットしたら、菊池の美味「和王」でエナジーチャージはいかがでしょう。熊本の豊かな自然の中で、真心こめて育てられた「くまもと黒毛和牛」。その中でも厳しい基準をクリアした肉だけが「くまもと黒毛和牛プレミアム『和王』」のブランド名を冠することができるのです。和牛の王様「和王」。その多くが、この菊池地域で育っています。個性豊かな菊池の飲食店が腕によりをかけた菊池の新看板グルメ「和王」限定メニューを、ぜひこの機会にご堪能ください。
 店舗情報など詳しくは → https://www.city.kikuchi.lg.jp/article/view/1279/9405.html